風雪の群像

北海道開拓百年を迎える1969年、様々な記念事業が行なわれました。その一つとして北海道主導により、札幌大通公園に《ホーレス・ケプロン像》、《黒田清隆像》がそれぞれ1967年に設置されます。

それに対し、民間の手で名も無き開拓者をたたえ記念碑を作ろうという運動が1968年8月に起こりました。これは、一部の指導者だけではなく、北海道百年の土台となって働いてきた人たち、名もなく土に埋もれた先人たち―農民、漁民、抗夫、アイヌの人たち、さらに流刑の囚人たちも含めた人たち―の労苦をたたえ、記念するとともに新しい未来への展望をあらわそうというものでした。「北海道開拓記念碑『風雪の群像』をつくる道民の会」(会長更科源蔵)が発足し、作品制作が本郷新と本田明二に依頼されました。制作費は、道民などによる募金と寄付でまかなうこととしました。

最初の構想では、札幌大通公園に風雪と戦う群像のブロンズレリーフをはめ込む壁面部分と、巨大な労働者の手を空にかざす塔の構成が提案されました。壁の前には木株を模した椅子を配置し、憩いの場としました。ところが設置場所は、札幌中心の記念事業を地方に広げるためとして、旭川市常磐公園に変更されました。作品もレリーフではなく、厳しい自然、飢えと闘いながら開拓に血と汗を流した3人の若者とアイヌの老人、若い女性の5人の群像となりました。

 作品完成が近づいた1970年5月、新聞等で《風雪の群像》の最終構想が公開されると、アイヌの老人のフォルムが差別にあたるとする公開質問状が出され、新聞紙上で論議されました。

問題とされたのは、アイヌの老人が木の切り株に腰掛けた構成です。アイヌの老人を和人より低い立場に追いやっていると解釈され、批判の矢面に立たされます。その主張では、アイヌの像を立たせた形にせよというものでした。芸術作品は、作者の制作意図がある一方で、見る人によっていかようにも解釈することが可能です。本郷は、各自の解釈をもとに作品の造形上の変更を迫るものに対し、否と主張しました。

本郷は、「和人と同様にアイヌを立たせることが、人間として平等の扱いであり、贖罪的な姿勢であり、アイヌが腰をおろしていれば不平等で贖罪の意識が無いとするあなたの観念論を私が受け入れられなけばならない理由がどこにあるのでしょう」と反論します。また、「5人の群像全体の中で、アイヌの姿が他の和人の姿に対しどのような関係におかれ、どのように響き合っているかによって、平等も不平等も屈辱か、蔑視かも決定されてくるのです」、「屈んだ像は十分に配慮された私の意識的な表現であり、それは必ず人々にわかってもらえるものと確信しています」と語っています。

1969年秋に発表された作品は変更することなく、1970年8月29日除幕されました。 その後、一部の過激な集団により1972年10月23日作品が爆破されました。この暴力行為は、作品の是非を論議していた両者から非難されました。

5年後の1977年、常磐公園の彫刻庭園の整備計画が予算化され、《風雪の群像》は復元されました。最初、公園正面入口に設置された作品は、もとの場所から西に70メートル移動され、台座の高さも40センチ低くなりました。また、今後公園に彫刻が多数設置されるだろうことを理由に、背面にあったレリーフは取り払われるなど、制作者である本郷と打ち合わせをしながら行なわれました。